自分たちが先ず動くことを考えた 

ボランティア活動が一般の市民にまで広まったのは1995年と言われます。阪神淡路大震災の際に、近所の普通のおじさん・おばさんもじっとしていられなくなって、ボランティアにはじめて参加した、それが全国的に広がって、ボランティアが決して特別な人のやることではないということが実感されました。また、広島では、その前年1994年の広島アジア競技大会の時の「一館一国・地域応援事業」がその前触れとなりました。広島に61あった公民館がアジア競技大会の参加国・地域の一つづつとつながり、その国・地域を学習し、応援し、もてなすというもので、公民館の利用者が主でしたが、広島市全域で市民の活動が盛り上がり、自分たちでもできるという自信が芽生えました。「カフェテラス倶楽部」が活動を開始したのもこの頃で、1995年6月のことでした。

ある人の、「カフェテラス倶楽部をやらない?」の一言で始まったのですが、お互いよく理解し合っていたので、その真意はすぐに伝わりました。一つは、広島市には平和大通りや河岸緑地など特徴的な公共空間がありますが、これらをもっと自由に使えないのだろうかということ、もう一つは、広島をカフェテラスで一杯の街にしたら特徴のある素敵な風景の街になるのだが、というものでした。その実、少しくたびれかけていたので、勤め帰りにカフェテラスでゆっくりするような生活をしてみたい、というのが本音ではありました。

当初は、月に一回会合を持ってどこかのカフェテラス的なところを訪問して話をうかがいましたが、その後、少しづつ準備をして自分たちでカフェテラスを楽しむことにしました。今も続けている平和大通りでの定例カフェは1997年10月から始めたものです。議論ばかりでは迫力がないし、働きかけをして行政にやらせよう、では本来の活動ではないと思いました。活動とは自分たちが自ら実践することだと思うからです。カフェテラスが在ってほしいと思うのであれば、まず自分たちがカフェテラスをやってみる。そうすることで初めて、課題も見つかり、ノウハウもたまり、実現に向けた戦略も持てるのです。全く見通しを持たずにということでは決してないですが、60%の見通しと責任が取れると判断できたら、まず自分たちで動き始めることだと思います。

 

やって見せれば行政はついてくる

そうこうしているうちに広島青年会議所から声がかかりました。毎年彼らが中心になって実施していた「広島文化デザイン会議」の一環として、平和大通りでカフェテラスをやりたい、とのことでした。「オープンカフェナイト」の名前で、1996年から三年間、夏の夜の二日間でしたが、青年会議所とカフェテラス倶楽部が平和大通りでカフェテラスを3ケ所出店しました。これは話題にもなり、マスコミにも多く取り上げられました。何より、市民の方にカフェテラス風景を見てもらい、その良さを知ってもらえました。行政がアンケートを実施しましたが、評判も上々でした。

このアンケートの結果や、オープンカフェナイトの成功に力を得て、行政の音頭で1998年に社会実験として行ったのが、「カフェ・ド・ベール」です。平和大通りの緑地に仮設の厨房を建て、160席のカフェテラスを営業しましたが、結果的には大好評で成功したと言っていいと思います。こののち三年間、民間主導で社会実験が続けられましたが、民間主導のものは赤字で打ち切られました。基になる店舗を持たず、その都度、全て最初から厨房や客席をつくり、マネージャーや店員を雇ったのでは利益が上がらないというのが教訓でした。カフェテラスは基になる店があって、プラスアルファで客席を広げるからこそメリットがあるということが確認できました。

これとは別に1999年11月から約一年間、京橋川沿いのフレックスホテル前の河岸緑地で始めたのが京橋川のカフェ実験です。建築士会広島支部まちづくり委員会とカフェテラス倶楽部が共同で月に一回カフェテラスを開き、ここでも近所にお住まいの方、カフェテラスのお客様からアンケートを取りました。いずれも好評だったため、2000年9月から、地元町内会が中心となった実行委員会の委託を受ける形で、行政の許可を得て、フレックスホテルとホテルJALシティ広島がカフェテラス営業を行いました。毎年二ヶ月程度の、期間限定カフェでした。2002年7月2日に広島市の「水の都広島の再生」が都市再生プロジェクトに選定されるのですが、その申請文には、民間でカフェテラスが実施されているという一文がありました。

2004年3月に河川法の河川敷地占用許可準則の特例措置通達が出され、それを受けて、早くも7月にはこの両ホテルは、行政主導の京橋R―Win開店(2005年10月)に先駆けて河川区域におけるカフェテラス営業を始めました。フレックスホテルの先代社長さんはカフェテラス倶楽部発足当初からの会員で、ホテル前の河岸緑地でのカフェテラスを熱望されていました。熱望するだけでなく、自ら熱心に動かれて、カフェテラス倶楽部発足からちょうど10年目に夢は実現したのです。

このように、広島ではまず民間が先行実施し、それを行政も受け止めて施策に組み込んでいくという流れでかわまちづくりが進みました。広島のかわまちづくりは「やって見せれば行政はついてくる。」方式だったのです。この言葉は徳島市の新町川を守る会の中村代表から私が直接聞いた言葉です。誰に頼るのではなくまず自分たちが活動を続けていく中で、課題や効果があぶりだされ、行政がそれを受け止めて施策としていくということなのですが、まさにわが意を得たりということで、よく使わせてもらっています。この気概が市民の社会貢献活動の極意ではないかと思います。公共空間使用の大原則を突き破り、今では全国に適用されている、河川空間での民間事業者による継続的営業が一連の広島の活動を通じて可能になったのです。

 

市民活動は「風景」となることを目指す

 さて、よく水辺の景観づくりと言われますが、社会貢献活動を実践する側の人間としては、「景観づくり」ではどうも物足りません。「景観」という言葉は昔から使われていたものではなく、もともと学術的記述をするために人間の想いを排除する言葉として考えられた造語です。そのためか、なんだかよそよそしい。私は「風ことば」と言っているのですが、ある字に「風」をつけた言葉があります。風土、風情、風合、風味、風化、風流、風貌、風格、風俗などなど、風の景の「風景」も風ことばです。風ことばはいずれも人との関わりと時間の経過を感じさせる言葉だと思います。市民による社会貢献活動は、個人の想いをエネルギーにし、その街の中で市民が活き活きと動き、モノができたりコトが起こったりする、それを年月かけて積み重ねるものです。街の物理的な景観の中で、或いはそれを舞台にして人間の営みがあり、その残像とも呼べるものが生まれ、活動を積み重ねるという意味で、「景観づくり」ではなく「風景となること」を市民の社会貢献活動は目指していると言えるのです。

さて、そうなるために一番大事なのは「持続」です、が実はこれが一番難しい。三年たつとマンネリではないかと自分を疑ってしまいます。続けていると心も体も疲れてくる。身の回りの色々な情勢も変わってくる。とても続けられない、続ける意味がないと思うようになる。ここまで来ると、自分の活動はやめるべきですが、それを団体の活動と混同しないでいただきたいのです。自分は続けられないが、団体の活動を続けるにはどうすればいいかを考えてほしいのです。社会貢献活動は、始めてしまえば大なり小なり社会的な責任が既に生じています。仲間のみんなと相談して、継続方法を考えて、持続させることが何より大事だと思います。自分たちの活動が街の風景となり、ずっと続いていくことを信じたいと思うのです。